
Koji 筆:
先日期末テストに及第し、ボローニャでの交換留学を終えた。
ボローニャにも七不思議というものが存在し、その内ボローニャの学生が特に気をつけているのがアシネッリの塔である。街の中心部に聳え、エミリアロマーニャ州を横断するエミリア街道に立てば、数キロ先からでも見えるほど、大きな存在感を放つ。ただ言い伝えでは、ボローニャ大学の学生が卒業前に塔に登ると、試験に合格できなくなるとされており、一交換留学生に過ぎず、教授らからも大目に見てもらっている自分も何となく登るのを避け続けていた。因みに、プリンストン大学の学生も似たような迷信に則り、ナッソー・ホール前の正門を卒業前はくぐらない。
そして、期末試験が終わったその日、ようやくアシネッリに登った。空は曇っていたものの、この季節特有の靄や空気汚染が比較的軽く、この一学期間奔走していた街の全体図を隅々まで観察できた。最初は展望台に十分前後いる予定だったが、普段ごった返している観光客の影もほぼなく、点在する大学の建物や、普段ジョギングをする道路、勉強からの休憩で登った丘などが一緒くたに目に飛び込んできて、結局日没までの二時間ほどを滞在した。現地に到着するまで何も知らなかったボローニャに対してここまで愛着が湧くものかと、ぼんやり考え込んだ。
塔からのパノラマを眼前に諸々の記憶が蘇る中で、確かに濃密な学期だっという実感が強まった。とここで、だらだらと書き進めてもつまらなくなりそうなので、クイズ形式でボローニャでの珍道中を紹介したい。下記のうち、私の経験したものがどれか考えていただきたい。
- イタリアの元首相に会った
- ボローニャの刑務所に立ち入った
- 自転車を盗まれた
- フードバンクで働いた
- 芸術文化祭で日伊の通訳をした
- 人生初の交通事故に遭った



そもそもクイズを作るのが得意でないので、答えは全部である。
1、2に関しては、履修していた授業の一環で行った活動で、教授らがさりげなく「再来週元首相が授業を行うので予習しておいてください」「月曜の授業後に刑務所を訪れるので身分証を忘れずに」と連絡をした際は耳を疑った。
今学期は、プリンストン大学で専攻学部が課すレポートと、プログラムを提供するブラウン大学の現地セミナーに加え、ボローニャ大学で二つの授業に参加した。一つ目は戦後イタリア政治史(Storia istituzionale della repubblica italiana; institutional history of the Italian Republic)で、二つ目は宗教と文化に関する法律学(Diritto delle religioni e interculturale; laws on religions and cultures)である。
イタリアでは、高校でも戦後史にほとんど触れないらしく、大多数の学生がかろうじて赤の旅団等の過激派が猛威を振るった鉛の時代や、マフィアに関連して有名なアンドレオッティ首相と爆死したボルセリーノ・ファルコーネ判事らを知っているくらいだ。つまり、言語能力や授業の受け方などのハンディキャップを除けば、交換留学生でも知識面ではさほど後れを取ることはなかった。幸いにも授業が開始した九月下旬に、ノートを共有してくれる親切な友人ができ、教授がどれだけ弾丸のような速さで話そうとも、何とか毎回のレクチャーを消化できた。無論、イタリアには閣僚評議会議長(Presidente del Consiglio)と共和国大統領(Presidente della Repubblica)の実質二人の長が存在し、尚且つ戦後は一年置きに内閣が崩壊するなど入れ替わりが激しく、情報を吸収するにも一苦労だ。しかし、キリスト教民主主義(Democrazia Cristiana)と55年体制、赤の旅団と日本赤軍、奇跡的な経済成長(il miracolo economico italiano)と高度経済成長期、マフィアとヤクザなど、戦後のイタリアと日本は少なからず数奇な共通点が多く、自分の国の出来事と紐付けながら学ぶのは苦にならなかった。
今学期はちょうど、イタリアの総選挙が実施されたこともあり、学生が授業に寄せる関心も高かったと思われる。ボローニャはイタリアの中で唯一共産主義支持者(ロシアや中国とは距離を置く)が多く、ジョルジア・メローニ新首相率いる事実上の右派政権が誕生した際は、多くの不満が噴出していた。そんな中、1990年代から2000年代に数回政権を握り、ベルルスコーニが代表する右派勢力と対峙したロマーノ・プローディ元首相がゲストレクチャーを行うことになった。ボローニャ出身で、ボローニャ大学で経済学の教鞭を取ったこともある彼は、我々の教授とも付き合いがあるらしい。国内では各種イデオロギーがぶつかり合い、国外ではユーロの導入や中東での紛争で世界情勢が大きく転換する中、イタリアの舵取りをしたポローディ元首相の教訓はどこか哲学的な要素が感じられた。経済学者ということもあり、経済的連携に重心を据えた講話だったが、長引く景気低迷に苛まれるイタリアでは妥当な成り行きなのかもしれない。兎も角、アメリカ、イギリス、ロシア、フランスなど他の西側の大国に比べ重要度が比較的低い国家かもしれないが、それでもG7のメンバーであり、NATOにもいち早く加入した国であり、はたまたより視野を広げれば日本同様ファシズムを脱却し成長した国でもあり、イタリア政治は等閑視できないと考えさせられた一学期である。

宗教と文化に関する法律学の授業については、日本の一般家庭で育った身として、新しい出会いだらけだった。ただ今年は、安倍元首相の銃撃事件を発端にした統一教会スキャンダルであったり、ワシントンD.C.とボローニャで発見した創価学会の支部であったり、日本にまつわる宗教時事を多く見聞した。その文脈を踏まえ、いざイタリアの宗教事情を学ぶと、宗教と世俗のバランスを取る難しさをより身近に感じた。ヴァチカン市国を首都ローマの中心部に認めるイタリアは、カトリック教会が多大な影響力を持ち、イタリア憲法第七条の政教分離の項でも名指しで取り上げられるほどだ。ヨーロッパの歴史的にカトリックの国の多くは、戦後政教分離を宣言しているが、フランスとチェコのように政治や公共の場から徹底的に宗教要素を排除する国家に反して、イタリアは最小限の政教分離を行い、どちらかと謂えばカトリック以外の宗教にも政治的自由を与える包摂的な方針を打ち出している。それゆえ、プロテスタント、ユダヤ教、仏教も盛んに活動している。因みに教授によれば、2016年に創価学会がイタリアでの正式な活動を認められた背景には、当時の安倍元首相とレンツィ元首相の個人的友好関係が大きく作用していたらしい。
残念ながら、そういった包摂性が売りのイタリアの宗教事情にも例外がある。イタリアで二番目に大きい宗教のイスラム教だ。そもそも宗派や部族ごとに独立して活動するイスラムは、イタリアに於いても全体を取り仕切る団体が存在せず、政府から政治的自由を保障される契約(Intesa)に調印する代表者がいない。そこに追い討ちをかけるように、9・11と2010年代のイスラム過激派テロ、ランペドゥーザ島を筆頭とする難民問題、反移民のポピュリズムの台頭などが加わり、イタリアの難民の大半を占めるムスリムに対する風当たりも厳しいものがある。その結果、モスクの建設が各地でままならないだけでなく、イスラムの祭儀や慣習を実施するのにも様々な壁が立ちはだかる。これに対しては近年、イタリア憲法第十九条にある信仰の自由や、基本的人権に対する侵害が取り上げられ、少しずつではあるが市民の間でも理解が広まり、行政の側でも一定程度の配慮がなされている。その一つが刑務所だ。人種・宗教差別がどれほど影響しているかは不明だが、イタリアの刑務所内の囚人の過半数を占めるムスリム達には、ハラルの食事が提供され、断食月には特別な対応が取られるのだそうだ。実際に刑務所を見学した理由は、刑務所内のカトリック教会を参観して信仰の自由と行政のバランスに対する学びを深めるためだったが、同じく他地域からイタリアに来て生活し、規模の差異あれど不平等を経験した身としては、ムスリム達が抱える困難に終始考えさせられた。

自転車泥棒とフードバンクの件は、一見関連性がないかもしれないが、私のケースでは繋がっている。上記のように、実際自転車がなくても生活は送られるが、やはりあると大変便利である。アメリカの大学と違い、ボローニャ大学には食堂がないため、午前と午後の授業の合間に一旦家に戻り料理をして昼食を取る。その時だけでも自転車があることで飛躍的な時短になる。ただ、そんな自転車を狙った犯罪も数え切れず、私が自転車を買ってから二週間でサドルが盗まれ、三週目の日曜には丈夫な鍵をかけていたのにも関わらず、自転車を丸ごと盗まれた。状況の切迫度は大分異なるが、思わずヴィットリオ・デ・シーカ監督の「自転車泥棒」が脳裏を過り、怒りや困惑を通り越してパロディーのような滑稽さがあった。問題は、警察署での被害報告であるが、毎日何十台もの自転車が盗まれる中、見つかる可能性は無に等しいと、けんもほろろな対応を受けた。状況が一転したのは一週間後で、盗難された自転車をボランティアで探しているドイツ人の住民が奇跡的に自転車を発見した。麻薬売りの移民が移動手段として使っていたようだ。
そうして、何とか自転車を取り戻したものの、とても複雑な気持ちだった。まず第一に、中古の自転車で大した金額を払わずに手に入れたものだったので、失くした衝撃が薄かった。そして、毎週近所のフードバンクで独身の高齢者や低所得の移民世帯に食事と食料を配布する手伝いに参加し、ボローニャの同じ地域の所得格差を目の当たりにしてきていたため、麻薬の売買に手を染めざるを得ない一部の移民らに対しても憤ることが出来なかった。勿論、生活が困窮しているならフードバンクを運営する生活支援センターを頼って欲しいものだが、イタリアの市民権がなく、イタリア語もうまく話せず、情報を獲得する手段が極端に少ない者に対して、そう言い放つのは些か無責任に感じた。ただ、そうイジイジと後ろ向きに考え続けても埒が明かないので、フードバンクでの仕事を通して多少なり貢献しようと心掛けた。普段使わない「登録者カード(tessera)」等の専門用語や野菜等の食べ物の名前に最初は悪戦苦闘したが、取り敢えず他のベテランボランティアに紛れて働くうちに、必要な知識が身についた。それ以上にやりがいを覚えたのは、ボローニャで稀少な日本人である私にも気さくに接してくれる来訪者が増えていったことで、いつしか自分もコミュニティーの一員として認められたような気がした。警察署での処理が非常に面倒臭いので、二度と自転車は盗まれたくないが、この一連の出来事を通してボローニャをより深く知ることが出来た。

日本のとある芸術団体がボローニャで開催した展示会兼文化交流会に、日本語とイタリア語の通訳として入ったのも刺激的な体験だった。政治学と学生生活での会話を中心に語彙力が構築されていた自分のイタリア語で、どれほど芸術関連の事業に力添えを出来るか分からないまま、大きな不安を抱えて挑んだ。思いの外、自分で感じる手応えは良かった。使われていた専門用語がそこまで一般用語と乖離していなかったのもあるが、単に実践的にイタリア語を使う経験がなかっただけなのもあったかもしれない。そして、自分の国の文化をボローニャの現地の方々に共有したり、逆にボローニャの街を日本からはるばる訪れてきた団体の職員の方に紹介したり、改めて異文化の橋渡しをする愉しさを直感した。

事件は十一月の中旬だった。ボローニャの交通量はとても多く、尚且つ危険な運転をするドライバーだらけだ。東京と同じく、道路の上に貼ってある自転車マークを踏みつけながら心無い運転をしたり、歩道に乗り上げて歩行者の道を長時間塞いだり、傍若無人の骨頂である。そんな中、自分もジョギング中にとうとう人生初の交通事故に遭う羽目になった。歩道から別の歩道に移る途中で、バイクに撥ねられたのだ。不幸中の幸いか、ぶつかってきたバイクのスピードは時速50キロ程度で、臀部から押し倒されたので、最終的にはかすり傷だけだった。しかし、事故の瞬間は頭が白くなり、状況を飲み込めないままうつ伏せの状態から立ち上がれず、バイスタンダーの方々が呼んでくれた救急車に乗って病院に運ばれる始末となった。中高の義務教育で柔道の受け身を習ったはずなのに、いざという時には体が動きを忘れ、打ちどころを間違えれば二度と走れない体になっていたかもしれない、と思うと今でもトラウマが続く。
その翌日、たまたまなのか宿命なのか、日本にいる祖父が息を引き取った。ただでさえ、事故に関して病院と警察、大学と奨学金団体とその他諸々の関係者に連絡することで頭がいっぱいであったのに、夏まで元気だった祖父がぽっくり逝去したのは、理解が追いつかなかった。志賀直哉の「城崎にて」にあるような、自分は助かったが祖父は助からなかった、という生死の隣り合わせが脳を埋め尽くした。ボローニャでの授業も終盤を迎え、プログラムを運営するブラウン大学の事務所も様々なイベントを企画してくれていたが、私は少し自分の時間を取り、事故によって逃した授業の復習をしつつ、生という漠然とした現実とゆっくり向き合ってみた。



その考えの途中で、思い出深かったのは、友人に誘われて参加したウクライナ戦争に関する抗議の行進である。ちょうど90年前に起きたホロドモールを追悼する日と重なり、ウクライナで繰り広げられる惨状に対するボローニャからの連携も熱を帯びていた。そうか、祖父と自分だけでなく、ウクライナでも犠牲となる人、生かされる人がいて、自分たち以上にその事実と向き合わざるを得ない状況下にいるのだ、と悟った。イタリアも、電力不足や物価高騰などの生活に密接に関わる分野で大きく影響を受ける今回の戦争だが、国際関係・公共政策を専攻し、且つ死ぬことの近さも味わったばかりの身として、行進しながらいろんな考えが浮かんだ。





重たい雰囲気で本稿を終わらせたくないので、自分の人生の道筋を考える上で、ポジティブな刺激となった体験も紹介したい。ずばり、旅。
前投稿でも宣言したとおり、今学期はプログラム終了までイタリア以外の国には旅行で滞在せず、国内の主要都市を見て回った。数時間鈍行列車で移動するだけで街の様相がかなり異なり、イタリア人が地域それぞれのアイデンティティを強く主張する所以を感じ取った。そして自分自身も、そういった文化や政治の些細な違いを実体験で学習することで、将来そういった学びを活かせる進路を選びたいという意識が一層濃度を上げた。
端的に記述すると、外交官総合職を本格的に目指したい。海外大学在籍者として、テスト対策や参加にあたって巨大なハンディキャップがあるが、インターンシップ、留学、日々の交流を通して、決心がついた。来学期プリンストン大学に戻ってからは、きっと今まで以上に目が回る生活になるだろうが、同じく海外大学に進学しながら府省庁での就職を目指す方に向けても少しずつ情報共有を行えれば、と思う。
ボローニャでの留学後期を締めくくるのに当たって、イタリア人の友人らに絶大な人気を誇るグループを紹介して終わりたい。Pinguini Tattici Nucleari は、イタリアの紅白に匹敵するサンレモ音楽祭に出場したことがあり、Sashimi、Zen、Hikikomori、といった日本語のタイトルを冠した楽曲も発表する一風変わったグループである。Giovani Wannabe はとてもエネルギッシュで、テンポも速くリズミカルな曲で、よく友人らが野外カラオケで歌っていた。ようやく冬休みを迎え明るい気持ちになる中で、より元気をくれるかもしれない。
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